1615年、大坂夏の陣で豊臣家が滅びる。豊臣秀頼、淀君自殺。
【暗記用俳句】 ♪夏の陣 広い御殿(1615)で 秀頼死す
大坂の陣とは?
大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家との間で行なわれた合戦。「冬の陣(ふゆのじん)」と「夏の陣(なつのじん)」から成る。
大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦(かっせん)。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。
大坂の陣(おおさかのじん)は、大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれている。
幕府は、2度目の戦い(大坂夏の陣)で豊臣家を滅ぼした。
大阪夏の陣とは?
大坂夏の陣(おおさかなつのじん)は、江戸幕府が豊臣家を滅亡(めつぼう)させた合戦。
関ヶ原(せきがはら)の戦い以降も、豊臣家は大坂城(おおさかじょう)を中心に、強い勢力をもっていた。
「冬の陣」は、講和(こうわ)によって一応の決着をみたが、豊臣家と徳川家の間には、依然(いぜん)として火種(ひだね)がくすぶっていた。
徳川家康(とくがわいえやす)は駿府(すんぷ)へ、徳川秀忠(とくがわひでただ)は伏見(ふしみ)へ戻ったが、国友鉄砲鍛冶(くにともてっぽうかじ)に大砲の製造(せいぞう)を命じるなど、次なる戦いへの準備を開始。豊臣家も金銀を浪人衆(ろうにんしゅう)に配布したり、武具(ぶぐ)の準備をしたりするなど、戦いの準備に着手(ちゃくしゅ)していた。
そうした中、1615年(慶長20年)4月に「夏の陣(なつのじん)」が開戦。
この戦いに敗れた豊臣宗家は滅亡(めつぼう)した。
そしてこの後すぐに、江戸幕府は武家諸法度(ぶけしょはっと)を発布(はっぷ)。幕府はその権力(けんりょく)をさらに強めていくことになる。
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